ひつじバー


「あ、やっば」

 

思わず口に手を当てた私に、通りすがったサラリーマンらしき男性が振り返る。

緊急事態宣言が解除されたとはいえ、外出時のマスクの着用は暗黙の了解だ。ぼさぼさヘアーでパーカーにサンダル姿、しかしそれに加えてノーマスクとなるとさすがズボラ女では済まされない。

(ただ、お酒を買いに出ただけなのに…)

 

さて、どうするか。目的のコンビニまではちょうど家に帰るくらいの距離にきている。引き返してまた出かけるには遠い距離だが、このままコンビニまで行って入店を拒否されたらバカバカしい。

住宅街の路地で、しばらく佇んでいると、駅前の繁華街へ続く道から、2,3人、学生たちが大声で笑いながら話しながらこっちへ向かってくる。酔っているようだ。

とっさに、街灯の影に逃げ込んだ。私は酒飲みも飲み屋の喧騒も苦手なのだ。もっとも深夜に酒を買いに出ている時点で、傍からは同類にしか見えないだろうがーー。生垣のある大きな家が影に身をひそめていると、職質される自分の情けない姿が脳裏に浮かぶ。

 

しばらくすると笑い声は遠ざかり、家々は眠りを待つばかりの窓辺に温かい光をともしていた。ため息をつくと、代わりに清々しい夜気が胸に流れ込んできた。途端に自分がひどくバカなことをしている気がして、恥ずかしくなってきた。

 

「帰ろうかな…」

そうつぶやいたとき、目の隅にちらりと、ありえないものが見えた、気がした。大きな背の高い男性くらいありそうなーー白い毛糸の塊ーー強いえて言えば大きな羊がスーッと歩いていったかと思うと、生垣の反対側の道の向こうに消えたのである。

 

羊のようなものが消えた角に、淡いオレンジ色の光が灯った。

わくわくと、好奇心に胸が躍る。すぐに後をつけて路地を入ると、くすんだピンクの屋根に、木枠の小さな窓と重そうなドアがついたレトロな平家が現れた。全体を1/3ほどツタに覆われているが、壁は夜目にも白く、入口の植え込みも小ざっぱりと整えられ、荒れた様子はない。そして、控えめに立てかけてある木の看板にはこう書かれていた。

「ひつじバー」と。

 

 

ドアは四隅に金属がはめ込まれているだけで、実際は軽い木でできていた。飾りのついたドアハンドルを見る限り、できたのは最近のものであるようだった。

 

「いらっしゃい」

 

大きならせん状になった角。丸いけれど白くて長い鼻づら。人間より大きな白い毛糸の塊は、やはり羊でしかなかった。蝶ネクタイをつけたそれが、ガラスコップを丁寧に磨いては、カウンターテーブルにそっと戻している。間違いない、彼はバーテンダーであり、この羊バーのマスターなのだ。

「おひ、とりさま?」

羊マスターが尋ねる。口元が見えないので表情が読めないが、黒いつぶらな瞳と、短いうぶ毛に縁どられた顔は、余白の多いとぼけた印象で、これまたやわらかそうな蹄にゆるゆると案内されると、もう先ほどまでの不思議な気持ちは消え失せ、私は促されるままにカウンター席に座っていた。

「さむいから、これ」

羊マスターは自分と同じ毛色のふかふかしたものを巻き付けてきた。ざっくりと編まれて表面にボリュームがあるショールにぐるぐる巻きになった私は、まるで一匹の羊だ。

 

「ふふっ」

急に力が抜けて、私は噴き出していた。コンビニに汚い部屋ぎで出かけた私は消え失せ、今目の前にはきらきらしたワインの瓶が並んでいる。これは、夢だ。私はいま素敵な夢を見ているに違いない。

冷水が運ばれてきたので、改めて落ち着いて観察してみると、ふわふわとつかみどころがないように見えた羊マスターはなかなか器用だった。しずしずとガラスコップののったお盆を運びつつ、メニューを開いて見せた。そこには手書きのおすすめメニューが、英語と日本語で書いてあった。まじめくさった物腰と、巨大な毛玉からにゅっと手を伸ばす動きのミスマッチがおかしくて、思わず笑いそうになるのをこらえる。

「おすすめはどれですか?」

マスターがカクテルのページを指さす。

「ふうん。『ひつじスペシャル』」

「ひつじさんが好きな草原の匂いがするよ」

「じゃあ、それで」

 

表情は読めないが、どことなく嬉しそうにマスターは来る時と同じようにしずしずとカウンターに戻り、薬草の匂いのする瓶をシェイカーに注いだ。

「はーぶです」

そう言って、「ひつじさん」は両手を上げてシェイカーを振り出した。

 

私はふと、2年ほど前の報道を思い出していた。

 

コロナウイルスのため、イギリスの地方都市がロックダウンしたばかりころのことだ。山から下りてきた野生の羊が人通りのなくなった街を我が物顔で歩いているというニュースだった。進んで家の中に閉じこもっている人間たちを窓越しに見る羊たちはどんな気持ちだったろうか。後々、ウイルスが猛威を振るうようになり、深刻なニュースに隠れてしまったが、その後あの街は、羊はどうなったのだろうか…。

 

ひつじさんは全身を使って、シェイカーを振っている…振り続けている。

「あの、もういいのでは」

と声をかけると、ハッとして手を止め、ばつが悪そうにしている。

「ごめんなさい、たのしくなっちゃうの」

「ぷっ」

ついに噴き出した私に、えへ、とひつじさんは首をかしげてみせた。

 

ひつじさんは最近になって、バーを開いたそうだ。

「やってみたかったのね」

簡潔な言葉には何の気負いはなく、そこに草が生えていたから食べに来たというニュアンスだった。

 

「ひつじスペシャル」は爽やかで少し甘いような香りが鼻を抜けていくカクテルだった。すっきりしていてスモーキーで、家路に急ぐ夕暮れの冷たい空気を思いだす。

「おいしい…」

しみじみと口に出していることにどきりとする。お酒がおいしいと思ったことなんて、久しくなかったんじゃないだろうか。今日も当たり前のように買いにいったはずなのに。今日も…今日「も」?私、毎日のように飲んでいたかしらん。

 

「ひつじさん…。メリーさんのひつじって歌える?」

「…」

うたえるけど、と言いつつもひつじさんは何を聞かれたのか、少々戸惑っていたようだった。

「ひつじさんに子守歌を歌ってもらおうと思ったらこれかなあって」

私は早くも酔い始めていたが、自分では気が付かないものだ。

「私の後に続いて。ほら、めーりさんの、ひ・つ・じ♪」

ご機嫌な私のテンションに気圧されたのか、ひつじさんは歌わない。ひつじ、の後に小さくはい、と合いの手を入れるだけ。

「ずるい、歌って歌って」

私が笑いながらひつじさんの体を軽くグーで押そうと立ち上がったとき、バランスを崩した体がつんのめった。視界がホワイトアウトしたかと思うと、私は毛糸の塊に埋もれていることに気が付いた。温かい。私は急激な眠気に襲われた。足元の感覚がなくなり、体がすうっと地面に引き込まれるようだ。ああ、夢が終わってしまうんだな、と思った。

 

「ひつじさんの故郷ってーーどんなところ…?あの、ニュースみたいな場所?」

全身を包む心地よい眠気に、もう目を開けていられない。

瞼の裏に、ひつじがいっぴき、にひき、とことこ歩いてくるのが見える。やがて、群れになった羊は街中にあふれはじめる。石ころだらけの道をものともせず…そう、私たちが毎日おびえて、不安に躓きそうになる道を、彼らは軽々と踏み越えていく。

 

不安や眠れない人間が増えると、代わりに羊が山から下りてくるんだ。遠のく意識の中で、私は長いことわからなかった答えを見つけたような気がした。

「わたしーーずっと眠れなくて、お酒をよく飲んでてーー」

「でも今日のお酒はおいしくてーーそれでーー」

優しい眠気が思考に蓋をする。ふと、体が宙に浮いたような心地がし、再び目を開けたときには何もかも消えていた。

 

私は部屋のベッドでふとんをかけて横たわっていた。

朝の陽ざしがカーテンの隙間から、あおむけになった手の平に一筋、光を落としていた。キラキラと、白く毛糸が光っていた。

 

「ありがとう、って言えばよかったなあ…」

 

私は珍しく晴れ晴れとした気分で、起き上がり、深呼吸をした。

夢だったのかもしれない、けれどーー

 

 

数週間後、自宅で仕事中の私に注文していた荷物が届いた。最近はハーブティーを飲むようになり、色々なメーカーのものを試しているのだ。

長いこと座って作業していたので、腰が痛い。ちょうど一息入れたかったので、さっそく開封すると、爽やかな香気が部屋に広がった。この香り、どこかで。

「あっ」

お茶の袋に、蝶ネクタイをつけた羊の絵が描かれたメッセージカードが貼ってあったのだ。

「カフェもはじめました」

私はお茶を入れることも忘れてしばらく笑い続けた。

 

 

 

おわり